[時事]個人と権力 立場が交錯する「違和感」

4月1日付朝日新聞天声人語は、国松元警察庁長官狙撃事件で時効を迎えた際の警視庁公安部長の記者会見を批判するコラムでした。
引用すると


「警察は真相に肉薄していたのかも知れない。だが100点が必要なときに90点しか取れなくては、プロの仕事としては失敗なのだ。無念を禁じ手の域で晴らそうとする図は、奇異を通り越す」
とあります。
(ごめんなさい。無断引用に付き、問題と指摘されれば削除します)



ぼくも警察の「憂さ晴らし」(あるいは捜査員への慰労?)には疑問を持っていました。
同じ天声人語の前半には、松本サリン事件で容疑者扱いされた河野義行さんが、私情を抑えてオウムへの破防法適用に異を唱えたことも記載しています。
これを読んで、過去(2008年4月22日)にぼくがこのブログに書いた「山口・光市母子殺害、死刑判決に」を思い出しました。




手前味噌で恐縮ですが、こう書きました。


(以下)
判決後の会見で、彼は司法に「感謝」した後、こう述べました。


「この事件で妻、子どもそして被告と、3人の命が失われることになる。これは社会にとって重大な損失。この判決の重みを感じて、今後犯罪のない社会をつくるためにどうすればいいかを考える契機にしなければいけない」


彼が被害者感情にまかせて「うれしい」と述べてしまえば、それは単なる「報復」にすぎません。
司法における少年犯罪に対して大きな影響を与えてきた人間が、少なくともこの判決を受けたコメントとして、復讐者ではないと述べたことは意味があると思います。
会見を見る限り、影響を十分に認識した上で、言葉を選んで発言しているように受け取れました。
(まで)
http://d.hatena.ne.jp/you-sak/20080422



法治国家において、罪に罰を与えることはあっても、「報復」は許されません。
ましてや警察は、逮捕権を法律で認められている数少ない機関です。
河野さんも本村さんも、事件の被害者である一個人がその重さを感じ、胸に刻んで行動しているにもかかわらず、国の司法機関が私情を吐露するなんてことはあり得ない話です。



警察は今、重大事件の増加などで批判を受けながら、一方で人員削減など矛盾する政策にさらされており、大変な時期を迎えているのは理解しているつもりです。
であればこそなおのこと、機関の持つ影響力、権力に十分思いをめぐらせ、次のステップを踏み出してほしいと願います。